Log in

特別支援教育とタブレットと香川県のトライアングル【caes study】

香川県教育委員会は、文部科学省の「支援機器等教材を活用した指導方法充実事業」に応募し、2014年から香川県内の3校で、ICT機器を利用した指導法などの研究を行っている。その成果は、随時WEBサイト「ICT教材等データベース」で公開されている。動画や写真で紹介される実践例は、誰でも見ることができ、このオープンソース志向が、教師間のつながり方を変え始めている。香川県教育委員会事務局特別支援教育課、藤田明主任指導主事に話を聞いた。

特別支援教育と親和性の高いタブレット

特別支援教育とは、さまざまな障害のある子どもたちに、障害による学習上、生活上の困難を改善、克服する指導・支援をしながら、その可能性を最大限に伸ばすことを目指す教育のことだ。一般的には、独立した特別支援学校や特別支援学級での教育が思い浮かぶが、通常の学級を含め、幼小中高の学校全体で実施されている。

このような子どもたちにとって、ICT機器、特にタブレット・コンピューティングは福音だ。なぜなら、障害者の多くは、本質に問題があるのではなく、表現手段を使いこなすことに問題があるだけだからだ。その表現手段を補う方法さえ見つかれば、障害は克服できる。

「手に麻痺がある子は、教科書をめくるということができにくい状況に置かれているだけで、タブレットの電子教科書であれば、指で簡単に次ページに遷移できます。それだけで、教科内容を理解する上での困難を取り除くことができるのです」

また、タブレットによっては、視覚障害がある子どもに対し、文字を読み上げるなどということは簡単に行える。しかし、従来のいわゆるパソコンでは、今度はその操作に問題がついてまわった。手に障害があればキーボードやマウスの操作は簡単ではないし、操作を少しでも間違えればエラーダイアログが出て、操作が止まってしまう。しかし、タブレットであれば指だけで直感的に操作ができ、パソコンにありがちだった環境設定やエラーダイアログからの復帰操作といった、いわゆる「コンピュータ・リテラシー」もほとんど必要としない。特別支援教育とタブレットは、きわめて親和性が高いのだ。

しかし、問題はタブレットを中心としたICT機器の導入予算だ

「県の予算だけでは、なかなか導入費用が十分には捻出できません。いいことではありませんが、有志の先生が自分のICT機器を学校に持ってきて使うという状況まで生まれていました」

一方で、香川県は特別支援教育へのICT機器を活用した指導の取り組みに熱心な人材は豊富だった。香川大学教育学部の坂井聡氏が特別支援教育の第一人者で、坂井研究室を卒業した学生たちが多数、香川県の特別支援教育関係の職についている。知恵はある、人もいる。でも、機器がない。それが香川県の特別支援学校におけるICTを活用した教育の実情だった。

香川県教育委員会事務局特別支援教育課、藤田明主任指導主事。

成果が活用しきれていなかった「小冊子」

そこで香川県教育委員会は、文部科学省の「支援機器等教材を活用した指導方法充実事業」に応募することにした。香川県内の研究指定校に、国の予算でICT機器が配付される。3つの研究指定校では、それぞれのテーマに従って、指導法の研究などを2年間行い、その成果を公表するものだ。

この取り組みで大きかったのが、香川県側でこのプロジェクトを推進した人物の存在。香川県教育員会事務局特別支援教育課の主任指導主事である藤田明氏だったことだ。

「私はITとかそういうの、苦手な人間だったんですよ。携帯電話もよう使わんかったもん(笑)」

藤田氏は教員時代、「腕前で教える」というアナログ教師だったという。

「だから、どういう教材にすれば、どういう仕組みにすれば、私みたいにICTが苦手な教員でも、うまく使いこなせるのかということを考えて、事業を進めていきました」

これが功を奏した。このような国の研究事業の成果は、従来小冊子にまとめられて、関係各所に配付されるのが普通だった。しかし、この方法の啓蒙普及効果は限定的だった。研究実施校で指導法を開発した教員は、まず原稿を整理しなければならない。日常の授業のほかに、研究開発と原稿執筆を行うのはかなりの負担になる。さらにこの原稿を事務局が整理編集して、製本しなければならない。

そして、紙の小冊子は無限に配付することはできない。活用価値がありそうな学校、関係機関などに配付をする。配付された教員も、そのとき抱えている課題にちょうどあてはまる内容であれば真剣に読むかもしれないが、多くの場合はざっと目を通して書庫にしまってしまう。のちに、課題が生まれてそれを解決する方法が小冊子に記述されていたとしても、それを瞬時に思い出せるほど記憶力の確かな人はそう多くない。

「ビビッときたら、すぐに調べられる」データベース

「だったら、どういう形で成果発表をしてくれたら、私でも見るかなと考えました」

それが「ICT教材等データベース」につながった。研究指定校の担当教員は、日常の授業の中で「これはいい実例だ」と感じたら、インターネットのブログ感覚で、簡単な記述を書き、写真と併せて報告をつくる。各校の登録担当者はそれをデーターベースに登録する。この記事は、教育委員会事務局側には「レビュー待ち」として表示される。事務局では、この公開される前の記事を読み、生徒のプライバシーや著作権に問題がないかどうかをチェックした上で公開をする。

ICT教材等データベースでは、香川県下の特別支援学校で日々取り組みが行われているICT機器を使った具体的な学習方法と成果が報告されている。逆引き的にカテゴリからデータベースを検索することもできる。

「この事業は2014年から始まりましたが、それ以前から現場の先生たちはさまざまな工夫をしてきました。その中には素晴らしいものがたくさんあるのですが、公開する場がなく、知る人ぞ知るという範囲にとどまっていました。それも、今回のデータベースで公開しています」

このデータベースは、教育関係者だけでなく、誰でも自由に見ることができる。周辺校の教員は、小冊子を読むのではなく、先に課題が生じたときにこのデータベースを検索してみるということができる。

「ビビッときたら、すぐに調べ、問い合わせるきっかけになればいいと思っています」

ICTが教育に与える効果は、教室の中だけにとどまらない

このような、発信する側の負担が少なく、受信側は時機を得たときに検索できるという啓蒙普及の手法が、新たな展開を生み出している。

例えば、聴覚障害のある児童生徒には、日本語文法指導というすでに確立した指導法がある。文法を教えるのに、耳からではなく視覚的に教えるというもので、品詞ごとに色を変えたパネルを教材として文法の仕組みを教えていく。しかし、この指導法を実践するには、綿密な教材づくりが必要で、高い専門性が要求されていた。そこで、特別支援学校の持つ専門性を活かしてタブレット用教材アプリをつくり、これを利用することで、発達障害のある子どもたちを含め、視覚支援が有効な子どもたちに広く専門的な文法指導が行えるようになることを目指し、実証研究が進められている。

「この指導法については興味深い反響がありました。本来は、聴覚障害のある児童生徒への指導法なのですが、(研究発表会で)この指導法を知った発達障害を支援している先生方から、自分たちの学級でも応用できるとおっしゃるのです。そういう反響があるとはまったく考えてもいませんでした」

このデータベースの運営にはほとんど費用がかからない。事業は2年間で終了するが、このデータベースはその後も運用していく予定だ。さらに、研究指定校が地域の特別支援教育の教育センターとしても機能し始めている。台数に限りはあるが、研究指定校が所有するICT機器を、他校にも貸し出す活動を始めているのだ。

「単に機器を貸し出すだけでなく、教育相談を通じて先方のニーズを知り、ニーズに合ったアプリや自作教材を指導方法と併せて貸し出しています」

このような情報交換を今までやってこなったわけではない。県内の教育機関には縦横のさまざまな連絡会議があり、他県とも連絡会などを通じて情報交換が行われていた。しかし、教材等データベースのような縦横無尽な情報の拡散は、従来にない経路だった。

「データベースで事例を紹介してから、研究指定校に他県からもたくさん視察にきていただけました」

従来の会議や連絡会を中心にした情報拡散は、発信側と受信側に同時性を要求する。両者が1つの会議室に集まって議論をしなければならないのだ。一方で、ICTを使ったコミュニケーションは非同期的だ。発信側と受信側は、自分の好きなタイミングで情報を発信したり受信したりできる。これからの教師は、現場で課題が生じたときに、教材等データベースのようなサイトを検索してみるというのが1つの作法になっていくだろう。そこで「ビビッと」くる内容のものを見つけたら、それからその発信者である教育委員会や学校と連絡を取り合えばいいのだ。

ICT教育というと、どうしても教室の中でのできごとばかりがICT教育だと思いがちだ。しかし、教室の外でもICT教育の成果が生まれつつある。もしかすると、ICT教育のもっとも効果が上がりやすい分野は、こういった教務に分類されるところなのかもしれない。

 

Author

牧野武文/テクノロジーと生活の関係を考えるITジャーナリスト。IT関連本を中心に、「玩具」「ゲーム」「論語」「文学」など、幅広くさまざまなジャンルの本を執筆。著書「Macの知恵の実」「横井軍平ゲーム館」「大失言」「萌えで読み解く名作文学案内」「ゼロからわかるインドの数学」「Googleの正体」「論語なう」など。